下馬5丁目紹介

■ 下馬5丁目の人口の推移  (現在の下馬5丁目が制定されたのは1968年(昭和43年)からです)

世帯数 人口総数

人口密度

(1㎢あたり)

1970年(昭和45年) 1687 4351 2210 2141 19,083

1980年(昭和55年)

1725

3984 1974 2010 17,474
1990年(平成2年) 1764 3764 1850 1914 17,507
2000年(平成12年) 1840 3699 1751 1948 17,205
2010年(平成22年) 1964 3823 1835 1988 17,781
2020年(令和2年) 2099 3858 1837 2021 18,028
2021年(令和3年) 2102 3906 1867 2039 18,252
2022年(令和4年) 2031 3813 1842 1971 17,818

■ 「下馬」の地名の由来

「下馬」の名前の由来は、源頼朝が奥州征伐に向かう途中、蛇崩川沿いで乗っていた馬が暴れ出して沢の深みにはまって死んでしまう事故に見舞われ、この地では馬は乗らずに引いて渡れという戒めから「馬引沢」と名付けられました。馬引沢村(上郷・中郷・下郷)の下郷が、江戸時代から明治初期に「下馬引沢村」、明治22年(1889年)以降は市制町村制施行時点の大字名で「駒沢村下馬引沢」と呼ばれ「下馬」の地名が出てきました。区の発足により昭和11年(1936年)に「下馬1~3」(現在の下馬1~6丁目と三軒茶屋・野沢・池尻・太子堂の一部に当たります)の町名になり、昭和43年(1968年)に現在の町名となり「下馬5丁目」が制定されました。

■ 下馬5丁目庚申公園

お猿庚申を祀った庚申堂があったこの土地は区に寄贈され、令和4年3月に新たに「下馬五丁目庚申公園」として開園しました。とても小さな公園です。

世田谷区教育委員会の編集・発行による冊子「せたがやの文化財 No.035」(令和5年3月31日発行)の表紙で紹介されました。

 

■ 芦毛塚

源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。

また、一説に鎌倉将軍の世に、この地の領主・北条左近太郎が仏経をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。

いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。

昭和53年3月  田谷区教育委員会